神田は の部屋の前に立っていた。
ドアをノックする訳でもなく、ただ立ち尽くしているだけである。
右手に1枚の書類を握りしめて、ずっと眉をしかめて悩んでいたのだ。
数分こうやってドアの前にいるので、傍から見れば怪しい人に見えなくもない。
だが、それが神田なので怖がって声をかける人は誰もいなかった。
「仕方ない…」
意を決したのか、小さく舌打ちをして左手で軽くドアを叩く。
「誰だ」という声が向こう側から聞こえてきたので、神田は名前を告げると何の返答も返ってこない。
数秒した後に、鍵が外れる音がしてドアが少しだけ開いた。
そこから が覗くように顔を出すと、驚いたように「本当に神田だ」と呟く。
「なんで俺が嘘をつくんだよ」
「いや、神田が私の部屋来ることなんてなかったからさ」
確かに神田が自ら他の人の部屋に行くことは滅多にない。
わざわざ他の人の部屋に行く用事なんてないからだ。
大抵は自分の部屋か、修練場にいるため、いきなり来た彼に は驚いたようである。
実際、神田の方も の部屋に来たのは数回しかなく、危なく迷いそうになった。
だからって「本当に神田だ」はないだろ、と思いながら小さく溜め息を零す。
「で、用件は?」
は警戒心を解いたのか、ドアを大きく開けると顔を上げて来た理由を尋ねた。
前髪の間からぱっちりとした黒い瞳が覗く。
(また、この目…)
実は、神田はこの目に弱い。
神田自身もよく分からないのだが、何故か の目に見られると目を逸らしてしまう。
嫌な訳ではないのだが、じゃあなんだと聞かれても答えられない。
まさか がメドューサだなんてこともないだろう…確証はないが。
そして今回も案の定、目を逸らしてしまう。
「任務の報告書を書く所を探している」
「…まさか、私の部屋で書こうって言うのか?」
はちょっとだけ眉を寄せると「自分の部屋は」と聞く。
「コムイのせいで半壊状態なんだよ」
そう言うと「ああ…」と も呆れたように頷いた。
『コムイのせい』というのは、コムリンのせいと言って良い。
コムリンはコムイが愛情を込めて作ったエクソシストを手助けするためのロボットである。
なんでも、怪我の手当をしてくれたり、他様々してくれるらしい。
至れり尽くせりなロボットになる予定だ、とコムイは話す。
だが、そのコムリンはコムイの愛情虚しく、なかなか反抗期から抜け出せずにいる。
今まで何体かのコムリンが開発されてきたが、暴走を繰り返すばかりで、全く誰の役に立っていない。
寧ろ、怪我人を増やすばかりで、今回は神田の部屋が犠牲になることとなったのだ。
そのため神田は、空き部屋を探して彷徨うはめになる。
「まあ別に断る理由もないから、どうぞ」
躊躇う様子もなく部屋を通されたので、神田は多少戸惑ったが有り難く使わせてもらうことにした。
の部屋は、割と質素なもので、ベッドや机などの生活上必要最低限しかなかった。
あと他に言えば、壁一面が本棚になっていて、ぎっしりと本が詰められている。
本棚に入りきらないものは、隅に山積みにしてあるぐらい、本で溢れていた。
ジャンルは問わず、小説から哲学書まで色々。
は机の上にある書類を簡単に片付けると筆記用具だけを残して「はい」と言って身を避ける。
「どうも」と礼を言いながら椅子を引いて座る。
そして は本棚から引っ張るようにして本を取り出すと、それを持ってベッドに座った。
神田はその姿を思わず目で追っていると、視線に気づいた が訝しげに目を細める。
睨んだ、と言った方が正しい。
「何か足りないものでもあったのか?」
「いや、十分だ」
「そう」と短く言うと、本を開いて読み始める。
2冊を較べる様に見ているので、何をしているのかと尋ねると少し面倒そうだ。
だが、片方の本を表紙を見せるように持ち上げ、「独英辞典だよ」と言う。
「ドイツ語を勉強してるの。」
神田が首を傾げたら、やはり面倒なのか、話すべきなのか迷うように目を逸らして本を静かに自分の膝に置く。
だが、神田ならいいかと呟いて顔を上げた。
「…小さい頃から父さんに『沢山の事を知りなさい』って言われてさ。そのために色々な国の言葉を勉強させられてたからな。」
今もその続きをしているだけだ、と言ってまた本を開いた。
だがすぐに顔を上げて「でも」と言葉を続けたので、なんだと思うと意外な質問が飛んできた。
「なんか今日はやけに話すな?神田」
確かによく話している。
いや考えてみれば、部屋がないから の部屋にってなった時点でおかしい。
何なんだ、とそのことに眉をしかめて「そんなことねーよ」とだけ言ってペンを持つ。
に言ったつもりだったが、自分に言い聞かせているようでもあった。
報告書がもう書き終わるという時、机に何か書いてあるのに気付いた。
コイツでも落書きなんぞするのか、と軽視していたが、落書きの意味に目が留まる。
普段ならそんなのは無視する神田でも、これはどうしても黙っている訳にはいかなかったからだ。
ラビ、という名前は神田でもよく知っていた。
落書きは矢印のような傘の下に、 とラビという文字が隣り合っているもの。
何故この名前が書いてあるのか、これはコイツが書いたものなのか、などという疑問より先に苛立ちが生まれた。
眉を顰めて、思わず舌打ちをする。
だが、この苛立ちは何から来ているのか分からない。
ラビはうるさくて面倒だが、それが苛立つ理由ではないだろう。
(じゃあ何だ…?)
分からないまま、苛立ちは増える一方だ。
「おい」
そして苛立ちのせいか、 の方を向いて声をかける。
本の文字を追っていた彼女は顔も上げずに「何?」とだけ答えた。
「ここになんで馬鹿兎の名前があるんだ」
「…は?」と、また面倒そうに顔を上げて、本を持ったまま立ち上がり机に近付く。
そして落書きを見ると、ああ、と言うようにして小さく息をはいた。
「…ラビが書いたんだよ。この間、部屋に来た時にな」
まあアイツならやりそうだなと納得はしたが、苛立ちが消えることはなかった。
どちらかというと、余計に苛立ったかもしれない。
どうやら神田はこの落書きの内容が気に食わないらしいが、理由は相変わらず不明だ。
は落書きをゆっくりと指でなぞって、困ったように、それでもどこか優しい表情を浮かべる。
なんでそんな顔するんだ、と不意に思い神田は眉をひそめた。
基本的に表情を変えない が、そんな表情をするのは初めて見たからである。
「消えないから、そのままってだけなんだけど…これがどうかしたのか?」
その理由は神田が知りたいのだ。
こんな落書き一つに、何を苛ついているのか。
言葉に詰まった神田は、まだ書き終わっていない報告書を掴んで椅子から立ち上がる。
「別に何でもねーよ」
それだけ言って部屋を出ていってしまう。
残された はキョトンとして神田の出て行った方を見つめていた。
そして机を見て悩んだ後、「アルコールでいいのか?」と呟くと、雑巾を探し始める。
「あとでラビに責任取ってもらわないとな…神田のために」
報告書を出しに司令室に行く途中、先ほどの落書きが神田の頭の中で鮮明に浮かんでいた。
そしてそれは、消そうとしてもなかなか消えずにしつこく張り付いた。
落書きのことで苛立ち。
何かに落胆した自分に苛立ち。
そして が滅多に見せないような顔をさせることができるラビにも苛立った。
もう理由なんてどうでもよくなってきていた。
この苛立ちを発散できる奴が分かったような気がしたからだ。
丁度、オレンジ色の髪で黒い服を着た男が科学班の奴らと話しているのが見えたので、神田は寄り道をすることに決める。
とにかくあの馬鹿兎を、ぶん殴ってやろうと心に決めたのだった。
この感情の名前を教えてくれませんか